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2023.03.23

コラム

瀬戸焼とは?「せともの」の語源となった焼き物の発展

焼き物の総称として使われる「せともの」という言葉は、瀬戸焼から由来しています。瀬戸焼は、愛知県瀬戸市で製造される陶磁器で、平安時代後期にその歴史に幕が開けてから、約1000年もの期間を経て、現代もその発展を遂げ続けています。今回のコラムでは、そんな瀬戸焼の特徴や歴史について、解説していきます。

せともの

写真提供:株式会社丸幸中島様

目次
1. 特徴:多種多様な品揃え
2. 歴史:1000年間の歩み
3. 材料:瀬戸層群で採れる良質な粘土
4. 技法:瀬戸染付
5. 最後に

特徴:多種多様な品揃え

焼き物というと、茶碗や皿、急須や土鍋といった食器類や花瓶や壺、置物などを想像するかもしれません。しかし、瀬戸焼はこれ以外にも、人形や置物といったセトノベルティ、水道の蛇口部品や洗面台、ドアノブ、人工歯、新素材であるファインセラミックスで作られた携帯電話の電子基板や自動車の部品など、私たちの身の回りにも多く使われています。全国各地に陶産地がありますが、こんなにも様々なものを作っているのは瀬戸だけです。
これ故に「瀬戸では作れないものはない」と言われるほどで、多種多様な品揃えが瀬戸焼の特徴であり強みといえます。

歴史:1000年間の歩み

今でこそ、私たちの生活に密接で、世界的にも有名な瀬戸焼ですが、1000年の歴史の中で、一時は衰退の一途を辿ったこともありました。それでは、瀬戸焼の誕生から現在に至るまでの歴史を簡単に見ていきましょう。

10世紀後半(平安時代)
 古墳時代から稼働していた猿投窯の流れをくむ窯で、灰釉(かいゆう)陶器が生産されるようになる。

11世紀末期
 釉薬をかけない山茶碗が作られるようになる。

12世紀末期(鎌倉~室町時代)
 中国で6年間やきものの技法を学んだ加藤四郎左衛門景正により、再び釉薬を使った陶器(古瀬戸)が作られるようになる。
__その後約300年に渡って全国に流通する。

18世紀(江戸時代)
 九州の有田焼が急成長を見せると、衰退の一途を辿るようになる。

19世紀(江戸時代)
 加藤民吉が1804年に有田焼の産地である有田で3年間の修行を行い、瀬戸に技術を持ち帰る。
__その後、従来の陶器に加え染付磁器の生産が盛んになり、活気を取り戻す。

20世紀(明治時代)
 欧米で開催された万国博覧会に出展し、高い評価を受ける。海外に数多く輸出されるようになる。
__西洋の技術の流入により、新しいやきもの作りが行われるようになる。
__機械ロクロや転写などの導入により、大量生産の体制が整う。これまでの食器や装飾品の他に、
__衛生陶器や理化学用品、セトノベルティなどの生産量も増え、最盛期を迎える。

材料:瀬戸層群で採れる良質な粘土

明治時代に瀬戸焼の輸出が盛んに行われた背景には、良質な瀬戸の土があります。瀬戸焼は、瀬戸層群で採取された木節(きぶし)粘土や蛙目(がえろめ)粘土、珪砂(けいさ)などを使用して作られます。中でも、瀬戸で採れる木節粘土は世界でもトップクラスの質の良さを誇ります。陶器(土もの)は数種類の粘土を、磁器(石もの)は粘土と石を混ぜて作りますが、粘土や石の配合によって、硬度や色合いが変わります。良質で豊富な原料を採れる瀬戸だからこそ、様々なラインアップの、良質なやきものを制作することができるのです。

技法:瀬戸染付

また、瀬戸ならではの技法として「瀬戸染付」というものがあります。明治時代に、西洋から取り入れたコバルト顔料を使用した絵付けの技法を「瀬戸染付」といいます。磁器の素地の白色と、コバルト顔料で絵付された青色とのコントラスト美しく、高級感あふれる仕上がりとなります。

最後に

質の良い土で作られ世界に名を広めた「せともの」。メイド・イン・ジャパンならではの造形美や精巧さが世界で好評のノベルティや、高度な技術で作られるファインセラミックスなど、今後も日本の輸出産業や私たちの生活を支える陶磁器として注目です。

井元産業では、瀬戸焼をはじめとする多種多様な日本の陶磁器や焼き物を扱っております。詳しくは「取引実績・商品」ページをご覧ください。

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