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2023.08.29

コラム

南部鉄器の「南部」とは?その名の由来について

 

目次
1. はじめに
2. 二つの産地
_2-1. 盛岡の鋳物
_2-2. 水沢の鋳物
3. 衰退の危機
4. 南部という名の理由
5. NANBU:広がる海外需要

はじめに

南部鉄器(なんぶてっき)。何の情報も持たずにこの言葉を聞いた時、ぼんやりと日本の南の方で作られた鉄製品とイメージする人が何人かはいるのではないでしょうか。かく言う私がその一人ですが、実際の産地は岩手県、南部どころか誰がどう見ても北部であります。「南部=日本の南方」と考えるのは少し短絡的かもしれませんが、輸出商材として日常的に取り扱うようになった今でもこの違和感から解放されずにいたので、改めてその名称の由来を調べてみることにしました。

Iwate, Japan

二つの産地

前述の通り南部鉄器の産地は岩手県ですが、その中でも二つの大きな産地があります。県庁所在地である盛岡市と水沢地域のある奥州市です。

盛岡の鋳物

盛岡の鋳物の歴史は江戸時代に遡ります。盛岡城築城の頃に茶道の興隆のため京都より釜師等の職人が登用され、藩の文化発展に大きく寄与したといわれており、これが盛岡の鋳物の起源とされています。茶道具や贈答品等の美術的要素が強いのが特徴で、現在の南部鉄瓶の原型もこの地で誕生しています。盛岡は南部氏が治めた南部藩の領内にありました。故に「南部」を冠するのは自然の成り行き、非常に分かりやすい話です。

水沢の鋳物

一方の水沢の鋳物の歴史はさらに古く、遡ること平安時代末期、藤原氏が近江(滋賀県)より鋳物職人を招いたことで始まったと言われています。盛岡の鋳物と違い、鍋や釜等のいわゆる生活必需品が多く作られ、民衆向けに大きく発展していきました。ただ、調べると水沢は南部藩ではなく仙台藩でした。盛岡に倣って命名するならば水沢のものは仙台鉄器となりますが、こちらも南部鉄器と呼ばれることとなりました。

衰退の危機

時代の移り変わりとともに鋳物業は何度も衰退の危機に直面しました。第二次世界大戦中は戦時体制により鉄物は軍事関連以外の製造が禁止され、150人いた南部の鋳物職人は10分の1程に減少してしまったといわれています。また、戦後はアルミ製品が大きく台頭し生活用品の主流となっていきました。このような状況の中、盛岡・水沢両地域の鋳物組合が力を合わせ、1959年に「岩手県南部鉄器共同組合連合会」を設立しました。この時両者とも「南部鉄器」の名称に正式に統一されることとなりました。ちなみに、南部鉄器とはこの組合連合会加盟業者によって作られている鉄器ことを指します。

南部という名の理由

盛岡に関しては、南部藩の鉄器という南部鉄器を名乗るこれ以上ない理由があります。対する水沢ですが、実はこちらにも同じくらい南部鉄器を名乗るに値する確固たる理由がありました。地図を見ると盛岡は岩手県のほぼ中心に位置しており、岩手県を南北で均等に二分するとどちらかといえば北側になりますが、水沢は完全に岩手県の南部に位置しています。岩手県を南北で分けて検証する必要など無く、誰がどう見ても南部であります。つまり、その地理的要素が南部を名乗る理由となったのです(日本の南方ではありませんでしたが)。

NANBU:広がる海外需要

現在南部鉄器は国内よりも海外需要のほうが圧倒的に多く、NANBU(またはNAMBU)TEKKI(またはIRONWARE、CAST IRON)として広く親しまれていますが、未だに時折SOUTHERN TEKKIとかSOUTHERN IRONWAREといった表記をネット上などで見かけることがあります。「南部」を固有名詞としてではなく形容詞として訳してしまっているわけですが、もし盛岡産のものをNANBU、水沢産のものをSOUTHERNとあえて分けて表記しているとしたら、奥が深すぎて逆に感心してしまいます。さすがにそれはないと思いますが、そんな想像をしてしまうくらい海外需要の勢いは特にヨーロッパや中国を中心に、本国日本とは桁違いのすさまじさです。南方だの北側だのそんなことを気にしている場合ではないでしょう、海外では、きっと。

井元産業でお取り扱いしております南部鉄器の商品については、こちらをご覧ください。
また、弊社では他にも多種多様な日本の陶磁器や焼き物を扱っております。
詳しくは「取引実績・商品」ページをご覧ください。

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