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2023.07.31
コラム
京焼・清水焼とは?京都でのやきものの発展
京焼・清水焼(きょうやき・きよみずやき)は、京都で作られるやきものの総称です。作家ごとの個性が強く、また京都ならではの芸術性の高い作品が生まれ続けています。今回のコラムでは、そんな京焼・清水焼についてご紹介いたします。
目次
1. 京焼と清水焼の違い
2. 特徴:陶工の数だけ生まれる個性
3. 歴史
_3.1 茶の湯の影響
_3.2 発展に貢献した人物
_3.3 伝統の継承と発展
4. おわりに
京焼と清水焼の違い
現在では、京都で作られるやきものを「京焼・清水焼」と呼んでいますが、もともとは焼かれていた地区により、京焼と清水焼とで区別がありました。清水寺周辺、参道である五条坂の窯元で焼かれていたものを「清水焼」、それ以外の、主に江戸時代初期ごろから東山地域を中心に広がったやきものを「京焼」と呼んでいました。
しかし、時代とともに、京都の窯元が減少していき、現代では京焼と清水焼はほぼ同じ意味として用いられるようになり、両方をまとめて「京焼・清水焼」と呼ぶようになりました。
特徴:陶工の数だけ生まれる個性
多くのやきものの産地では、やきものに適した土が採取できたことで、やきもの生産地としての発展を遂げていきましたが、京焼・清水焼の産地である京都では、やきものに適した土が採取できません。そこで、日本各地から必要な陶土や陶石を取り寄せて、陶工や利用客の好みに合わせて配合し、やきものの生産を行っています。陶工によって独自のカスタマイズをしているため、種類は多種多様にわたり、陶工の数だけ種類があると言えます。そのため、京焼・清水焼は、「これ」といった特徴があるわけではありませんが、陶工ごとの個性が強いということが特徴であると言えるでしょう。
歴史
茶の湯の影響
陶土・陶石が採取できないにもかかわらず、京都でやきもの生産が盛んになった背景には、京都がやきものの消費地であったということがあります。江戸時代、茶の湯文化の中心であった京都では、茶会の機会が多く設けられ、公家や大名から茶器や茶道具の注文が多くありました。京焼・清水焼が始まる前にも、京都でやきものは作られていましたが、茶の湯文化の発展に伴い、そのニーズに応えるために京焼・清水焼として京都でのやきもの作りが発展していったのでした。
発展に貢献した人物
現在一般に呼ばれている京焼・清水焼は、江戸時代の初期にはじまりました。京焼・清水焼の確立に至るまで、京焼・清水焼の発展に貢献してきた人物を紹介いたします。
江戸時代初期~中期
江戸時代初期から中期にかけてつくられた京焼・清水焼は、「古清水」とよばれています。今日の京焼・清水焼のルーツと言われています。
◆野々村仁清(ののむら にんせい)
もともとは葉茶釜の名産地である丹波の陶工であった仁清は、江戸時代初期に仁和寺の門前に窯を開きました。華麗で雅やかな色彩の「色絵もの」を作風とし、その後の京都のやきもの界に大きな影響を与えました。
◆尾形乾山(おがた かんざん)
京都の呉服商の家に生まれながらも、陶工の道を進み、仁清の作風をさらに発展させていきました。兄で日本画家の光琳が絵を描き、乾山が詩文を賛した兄弟合作の絵皿など、芸術性の高い作品を残しました。
江戸時代後期~
江戸時代後期から、本格的に磁器の製作が行われるようになりました。
◆奥田頴川(おくだ えいせん)
呉須赤絵の模様を最も得意とし、巧妙で上品な印象の磁器を多く制作しました。多くの門下生を輩出し、門下生たちはそれぞれ独自スタイルで作陶に励み、京焼・清水焼は全盛期を迎えることとなりました。門下生の中には、九谷焼で貢献した青木木米などが挙げられます。
伝統の継承と発展
江戸時代初期からの色絵ものをはじめ、受け継がれてきた伝統は守りながらも、新たなことをどんどん取り入れる気風が京焼・清水焼の特徴の一つ言えます。
明治時代には、石膏型を使った製品作りが行われ、海外向けの商品が開発されました。また、ヨーロッパ式円窯を使って洋風陶磁器の生産も同じ頃に導入が始まりました。
おわりに
陶土や陶石が採れなくても、日本各地から取り寄せブレンドし、様々な種類のやきものが作られてきたことは、他のやきものの産地ではあまり見られない特徴です。また、時代の流れに合わせて、新しいことを取り入れながらも、これまでの伝統を守るスタイルで、京焼・清水焼はさらに発展をつづけており、国内外に向けて発信されています。
井元産業では、多種多様な日本の陶磁器や焼き物を扱っております。詳しくは「取引実績・商品」ページをご覧ください。
(参考)
京都陶磁器共同組合連合会
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